2012.12.27
建築を学ぶ意味
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建築を学ぶ という事|SCHOOL ARCHITECTS BLOG
大学時代にお世話になっていた教授が最近はフィンランドに滞在しているようで、フィンランドに関する様々なトピックをブログに不定期で掲載されていてよくチェックしている。フィンランドといえばmarimekkoやittalaなど世界レベルのブランドを抱えている国で、デザインや芸術に興味を持っているなら自ずと行き着く場所だと思う。
上のポストではフィンランドという国が幼少期からアート・デザイン・建築を積極的に教育に取り入れていることが紹介されていて、その内容は僕から見るとユートピア的ですらあると思ってしまうほど。色、形、素材、匂い、手触り、光と影…これだけの内容について果たしてどれだけの日本人がまともな教育を受けただろうか??
僕は芸術系の大学で4年間建築を学んだ。その内容は(恐らく一般の方が想像する建築家像とは大きく逸脱して)建蔽率を4回生の頃になってやっと教わるほど理系とはかけ離れたカリキュラムだった。ではそれまで一体何を学んだのかというと、一言に「建築的な考え方」だったと思う。
建築は普通、建つと最低でも数十年はその土地に残る。例えば住宅ならその間に住まう家族の形は大いに変化しているだろうし、外側の社会情勢も同じはずだ。そこではやはりコマーシャルとは対照の持続可能性であったり、普遍性について考えざるを得なくなる。また建築は普通、人が造るものの中で最も大スケールだ。公共空間であればそれを取り巻く社会性を切り離せない。もちろん建築は一種のメディアでもあるし、ある人格を社会に投影するファッションのようなものでもあるだろう。最近は下火だけど建築なのに建てない、アンビルドという世界まである。
「建築ができればどこでも通用する」という人もいる。僕は半分それを疑っているけど、少なくとももう半分は認めざるを得ないと思う。身体の延長からアイデアを組み立てる、もしくはマクロからミクロへ少しずつ視点を掘り下げて着地させるなど考え方は人それぞれだけど、どちらにせよその過程は「建築を設計する」に限らない様々な意味を含んでいるはずだ。それは例えウェブというある意味今の世の中で最もチープで儚い媒介にも通用するのかもしれない。なぜならどんなにチープなメディアでも、その向こう側にはある興味と価値観を持った人が存在するからである。
どこの領域に行っても通用する普遍的な考え方、それは劇的に変わり続けるこれからの時代でもよく生きるために、重要であり続けることではないだろうか??