2022.06.20
実際に仮想世界に住んでみた視点からの「メタバース」に対する雑感
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気がつくと半年以上もブログを放置してしまいました。ようやく新型コロナウィルスの影響も収束に向かっていて、海外旅行も少しずつ再開の方向に。この前はひさしぶりに「森、道、市場」という愛知県で毎年開催されている音楽フェスに行ってきて、(予想以上の混雑ぶりに驚きはしたものの)この2年間いかに五感を使っていなかったのかを思い知らされるほど充実した休日を過ごすことができました。
それまでコロナ期間中の余暇に何をしていたかというと、ここ半年はずっとオンラインゲームをしていました。「FINAL FANTASY 14」というMMORPGと呼ばれるジャンルの中で世界No.1のプレイヤー数を誇る日本製のゲームで、あまりに豊富なコンテンツが用意されていてそれはもはや「メタバース」と定義してよいくらいの領域にまで到達しています。最近はゲーム界以外でも名前が知られるほどになってきていて、今さらここでその魅力を語る必要はないのかもしれません。
少し前のVRやAIのように今のメタバースというのもブーム的に忘れ去られていく可能性が高いと見ていますが、エオルゼア(FINAL FANTASY 14 の世界のこと)での暮らしが精神的支柱となっているプレイヤーが現時点でも一定数見受けられますし、実際にたくさんの人々とコミュニケーションを取った経験は多くの示唆に富むものでした。その視点から、僕が今メタバースについて考えていることを記録しておきたいと思います。
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リアル経済圏とメタバースが結びつくとそこは「地獄」になる
現在メタバースがキーワードとして盛り上がっているのは、かつてのGoogle検索やYouTube、SNSのようにそこに新たなエコノミー、つまり経済圏が生まれるという期待が強いからのように見受けられますが、果たして人間の感情よりもお金稼ぎが優先される世界が現実空間より豊かになることはあり得るのでしょうか?今でもYouTubeを始めとしたインターネット上では倫理観の微塵も感じられないような広告が溢れている時代です。
メタバースにおける「国家」がひとつの営利企業であるという点も問題で、そこは民主主義が機能する場所ですらありません。SEO対策を専業としている人がGoogleのさじ加減ひとつで職を失うリスクがあるのと一緒で、そういった世界で生計を立てるという行為そのものが自らを地獄へ導く可能性が否定できません。
※ ちなみに「FINAL FANTASY 14」が比較的良質なコミュニティを形成できている理由は、そういったリアルマネー経済を徹底的に排除しているからだと思います。ゲーム内での行いが何も経済的なメリットに結びつかないため、純粋に楽しむ目的以外にプレイする動機が発生しないのです。
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共通体験が無いと流行らない
昔シンガポールに住んでいた友人に会いに行ったときに、「日本の四季は素晴らしかった」と言われたことがありました。「今日は冷えますね」「梅雨が開けていい天気ですね」というように季節があるだけで誰かとの会話のきっかけになるからです。
これは仮想空間においても極めて重要なことなのだと思います。MMORPGというジャンルが20年以上前からずっと途絶えていないのは、きっと皆で同じゲームをプレイしているという共通体験があったからなのでしょう。「あのボスすごく強いよね」「でも実はこういう方法で簡単に勝てるよ」といったように、見知らぬ誰かと会話をはじめるきっかけになり得ますし、そもそも他人同士がそういった共通体験無しに仲良くなることは、現実でもかなり難しいことなのだと思います。
もしゲームというパッケージ以外でメタバースを流行らせるならば、「共通体験のデザイン」は重要なキーワードになってきそうです。
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持続可能なメタバースは匿名性
僕が「FINAL FANTASY 14」をプレイしていて驚いたのは性の概念がかなり希薄であったことです。現実の性別とプレイしているキャラクターの性別が一致していないことはよくありますし、いわゆる性的マイノリティのプレイヤーも予想以上に多く見受けられます(この前も、ずっと男性だと思って接していたフレンドが女性かつレズビアンであることであることが発覚し驚きました)。現実で手に入れられなかった容姿や人格が実現するからハマっているという事例が多く、必然的に匿名性のほうがバリューが創造でき支持されやすいと思いました。
また、Facebookが凋落する一方でTwitterの評価が落ちない理由にもつながる点として、「匿名なら何度でも生まれ変われる」ということがコミュニティの健全な新陳代謝を維持しやすいとも見ています。
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いくら技術が進歩しても五感すべてが満たされることはない
これは少し考えればわかることで、どんなにディスプレイなどの表示技術が発達してもそれが現実世界の豊かさを超えることは想像しづらいと思います。その時点で現実世界の再現というのはメタバースでの価値になりづらく、メタバースでしかできない体験の構築こそが必要であるということになります。
一方で僕が上述のゲームを始めた際に、「なぜ人は仮想空間でも椅子に座るのか?」を疑問に思ったことがありました。一見するとわざわざ時間と予算をかけて開発することでないように思えますが、現実での営みを強く連想させる行為があったときこそ、プレイヤーの意識と画面内の世界が強く結ばれるのだと思います。そういった意味で仮想空間における椅子は、表示技術の未熟さを補うためのインターフェイスとして大きな働きをしていると評価できます。
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今騒がれているほどは世界を支配しないが、そこに住む人は増え続ける
結論はここに尽きます。過去ほとんどのブームがそうであったように、メタバースがすごいと騒いでいる人たちの大半は「人間とはどういったものか」を理解すらしていないし、そういった人たちの作るものが広く受け入れられるとは到底思えません。
しかし一方でメタバース的な性質を持つものはすでに社会実装済みで、すでにそこに住んでいる人たちも一定数存在します。それはいまだに19世紀レベルの侵略戦争まで起きてしまうような現実からの逃避なのかもしれません。あるいはもっとうまく、現実も豊かに生きていくための支えともなり得そうです。
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10年以上前に「ニコニコ宣言」というステートメントを読んで深い感銘を受けたことがあります。彼らは偶発的にできあがったニコニコ動画というサービスを「人間のような感情を備えた集合知」と定義し、これこそが人間が人間らしく存在し続けるために必要な空間であると僕は強く認識したのです。
そこからしばらくしてYouTuberなどをはじめとするウェブ空間の変化は、上記のステートメントにある通り巨大なお金が飛び交うだけの世界と成り果てた側面もあります。僕もその一端を担っているため決して否定はできませんが、このまま「人間」は終わりに向かってしまうのか?という問いに対しては、それに抗う営みも現時点では確かに存在し続けているというのが僕の評価です。