2016.04.19
デザインと民主主義
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伊勢志摩サミットの開催が近づいてきて、公式ロゴマークが目に触れる機会も増えてきた。広く公募によって集められた作品から選定されるというプロセスは確かに批判を浴びるリスクが少なくて、ひとりの高校生のアイデアが大役に抜擢されたという事実は、何より本人の人生にとって大きなインパクトを与えるものなのかもしれない。
僕自身、今の道を選んだ理由として、18歳の時に初めて「仕事」としてメジャーアーティストのCDアルバムのアートワークを制作して、それがメディアと流通の力で全国へ展開されていく様を見た経験はものすごく強烈だったし、そうやってチャンスを与えてくれた大人たちの存在が今の僕を形成しているのは間違いない。
しかし、この図案が今回のような重要案件の最優秀案として決まってしまったことについては、どうしても納得出来ないのである。構成も色彩設計も稚拙で、シンボルとして要求されている与件を満たしていない。民主主義がその国の政治リテラシーを表現するように、今回の選考もまた、この国と人々が如何にデザインに対して幼稚であるかを体現しているのだ。
皆の意見でデザインを決めるというプロセスは一見美しいけれど、一方で参加者の多数に正確なデザインの知識や見聞を求める酷な要求でもある。ヨーロッパの一部などでは「民主主義の公共デザイン」が機能している国もあるようだけれど、少なくとも今の日本はまだそのレベルに到達していない。政治での民主主義が教育システムの整備とセットでなければ成立しないように、民主主義のデザインが最良の結果をもたらさないのであれば、大多数のリテラシーが向上するまで、その決定は密室かつ独裁で行われた方がマシなのである。
今の日本、これからの日本において高度な民主主義のデザインは実現できるのだろうか?僕は残念ながら厳しいと思っているし、実現できたとしても今から早くて30年はかかるだろう。優れた最終製品で世界のマーケットを渡り歩くためには産業とデザインの統合はもはや絶対条件で、そもそも「デザインはセンスだけの世界」と捉えられているとしたら、その分野での国際競争力は絶望的と言わざるを得ない。
そういった状況からデザインのリテラシーが向上して、良質な環境が整備されるための近道は、結局理不尽で独裁的なやり方しか無いのではないだろうか。僕は民主主義のみが万能で美しい形だとは捉えていないし、もっと掘り下げて考えない限りソリューションはないと思っている。