2015.09.05
TOKYO 2020
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まさかの使用取り止めになってしまった東京オリンピックのエンブレム。国立競技場の方も当初のリノベーション案やその後のザハ・ハディドのプランいずれも破綻してしまい、こんなに消極的な世論でそもそもオリンピックなんて開催する必要があるのか?と思ってしまうほどどうしようもない状態で、オリンピックを取り巻く一連の動向は未来への希望どころか、日本とこの国の社会が抱える根深い課題を改めて直視させられるような事態にすらなっています。
グラフィックデザインという言語に対して真摯に向き合っていて、かつ佐野研二郎のこれまでの実績を追ってきた層であれば、今回のエンブレムは彼が掲げる「Simple / Clear / Bold」というコンセプトが複雑なコンテクストを受け入れて更に次元の高いレベルに定着されていることは説明されなくても十分に汲み取れると思います。しかしだからといって、理解できない人たちに文句を言うだけでは決して状況はポジティブになり得ません。今回はなぜ僕がこのエンブレムが素晴らしいと思ったのか、またデザイナーとしてどういった努力をすればこのような悲劇を防ぐ確率を上げられるのか、を雑感として書いてみたいと思います。
まずは前者の、このエンブレムが優れている理由から。
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単一性から多様性への転換
1964年大会で亀倉雄策が制作したエンブレムは復興する当時の日本を象徴するにふさわしく力強いもので、中心性や一体感を感じさせる骨太な図案でした。一方で2020大会では「展開力」と記者会見で言われたように、より多様化した豊かな現代の様子を極限まで単純化したエンブレムで受け入れたという点で確実にそのコンテクストをつないでいて、引き算のデザインとしてかなりのレベルに達しているといえます。(例えコンペ当初案がより単純でつまらないものであったとしても)、それを修正してこの次元に昇華させた状態で世に出たというのは間違いなくデザイナーの努力の結晶で、その作業量は説明を聞かなくても明らかにモノ自体が語りかけています。
複雑な目線のサーキュレーション
上の項目とつながる点ですが、単純な図形と色彩の組み合わせで絵画のような複雑な目の動線を作り出していること、そのエンブレムから目を離さない視覚的強度を生み出しているという点で、まず図案として優れています。第一印象で「綺麗」「かっこいい」というマークを作ることは意外と簡単で、しかしそれが何度見ても飽きないものであること、後の時代から参照されても耐えうるものであること、しかもここまで要素を減らしたエンブレムでそれらを実現するのは本当に困難なことなのです。
黒色を躊躇いなく取り入れた案であったこと
少なくとも日本国内では黒いエンブレムというのはまず広く受け入れられることはありません。それはきっとロジックでも何でもなく「生理的に嫌だ」「なんとなく嫌い」という程度のものなのでしょう。あるいは「喪章のように見える」といった文化的バックグラウンドがあるはずです。この「なんとなく嫌い」の壁を乗り越えるのはとてつもなく困難なことで、敢えてそれを取り入れたデザインという点でかなり挑戦的であるとは感じていました。その挑戦心が、未来を拓く力強さを感じられて深く印象に残っていたのです。
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以上が今回のエンブレムで特に素晴らしいと思った点ですが、これについては僕だけの特別な意見ではないとも思っています。問題はなぜ使用取り止めという深刻な事態になってしまったのかということで、それについては大きく2つあるのではと感じています。
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評価する力の欠落
もし今回の五輪エンブレムがベルギーのリエージュ劇場のロゴマークの盗作だと本気で信じているのならば、その時点であなたはデザイナーとして食っていけるレベルでは無いと断言できます。それほどに全く違う文脈のものであり、大勢の意見、強い意見になんとなく影響されてしまう、自分の意見を持たない日本人の欠点が端的に現れている事象だと感じます。これは教育をなんとかしない限り改善は難しいでしょう。
プレゼンテーションの問題
「分かる奴だけついてこい」というスタンスで今回のような仕事は成し遂げられません。発信側は丁寧に説明していたと思いますが、一方でそれは多くの人が納得できる回答ではなかったとも思います。この壁を突破できる人材は本当に少なく、しかし作り手は理解されるための努力を少しも怠ってはいけないと僕は考えています。
たとえば最初からエンブレムを明示するのではなく、展開例からエンブレムに収束していくような発表形式でもよかったのかもしれません(スティーブ・ジョブズ時代のアップルのプレゼンテーションのような構造ですね)。それまでと全く違う製品を幾度も投入しながら、彼らはその価値に気づいてもらうための努力を惜しまず、世界中の人々をワクワクさせてきました。今後の作り手には一層そのスキルと努力を要求されるかもしれません。
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感情的にはまだまだ言いたいことはたくさんありますが、敢えて今回はドライな視点での観察に留めたいと思っています。現実として日本人デザイナーの価値観やアウトプットは世界的に見てもかなり特異であって、もっと評価される可能性があるのにその芽が足元で踏みにじられるような環境であるとすれば、それはとても悲しむべきことでしょう。
困難な時代であっても、僕は前向きでありたいと思っています。