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2011.08.12

ちゃんと選んでる?

「自分で選んでいる」と思っておきながら、実は「選ばされているだけ」ということがよくある。

例えばコンビニエンスストアに行けば大抵のものには選択肢(例えばポカリスエットかアクエリアスか、塩味かコンソメ味かなど)があって、その都度自分の嗜好にあったものを選んでいる”つもり”でレジへ持っていくのだけれども、それは果たして100%自分が欲しい物にマッチしているのだろうか?

コンビニエンスストアの店舗面積は決して大きくない。そして顧客のわがままは際限なく枝分かれし収集がつかない。それをどう現実的に落とし込むのかというと、この最小の選択肢を用意しておけば恐らく8割くらいの顧客はそこそこ満足するであろう、という商品をいくつか置くのである。とても合理的な判断だ。

こういう事は今や生活のかなりの部分で見受けられるようになったと思う。例えばGoogleで「香港 旅行」で検索してみたらどうだろう。膨大にあるウェブサイトをクロールして、検索結果1ページ目を表示しているのは誰だろうか?それはどういう基準で選ばれているのだろうか?目の前に見える検索結果は、自分にとって真に知りたい情報というよりは、その検索ワードについて何か知りたい人たちの8割くらいが概ね満足できるような、フラットな情報で埋め尽くされているはずだ。
最もGoogle検索には個別アカウントごとに嗜好を判断して検索結果が変わるようなアルゴリズムが入っているらしいのだけれども、そのアルゴリズムの源すら、自分と何となく近い(けど自分とは決定的に違う)世界の中の誰かの嗜好であったりする。

就職活動はどうだろう。多くは「どんな業種?」「大企業?それとも中小企業?」「待遇は?」と整然とカテゴライズされた選択肢の中から何となく自分の行きたい会社を決める行為である。けれども自分の本当に目指すべき場所はそうやって決まるものなのだろうか?そもそも”就職”を前提に進路が決まっていくこと自体、それは自分の道を選んでいるというより、既に選ばされてはいないだろうか?

しかし実際、自分で選ぶ、決定するということは大変なことである。特に上に挙げた、ある意味とてもスマートで洗練されたシステムに包まれて”選ばされているだけ”の日常を過ごしていたとすると、尚更だ。

情報過多の時代に、こういった”選んでくれるシステム”の重要性は増すばかり。しかし”選んだつもり”で我が物顔になっていると、いつか大きなものを見失ってしまうような気がしてならないのだ。