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2011.03.24

巨大プラットフォームはいつも甘く優しい表情をしている

mixi、Twitter、Facebook、GREE、モバゲータウン・・・気がつけば「コミュニケーション」を核としたプラットフォームは今や身の回りに溢れかえっている。ニコニコ動画だって古株の2ちゃんねるだってもちろん人対人が本質である。

そこまで大規模な実装でなくても、例えばブログシステムと呼ばれるものにはほぼ確実にコメント機能がついているし、YouTubeやFlickr他無数に散乱する写真共有サイトも然り。これらは発信者対閲覧者のコミュニケーションを補完するものとして用意されている。

はてなブックマークやいいねボタンなどもコミュニケーションと呼べるだろう。ボタンを押した人は趣味や好意をオープンな場で表明することになるし発信した側には具体的な数字となって戻ってくるのだから、キャッチボールが成立している。

黎明期の頃からインターネットはいずれ、人と人とのつながり方を大きく変えると予想されていた。そして実際その通りになってきていると思う。上述したプラットフォーム達を”ハシゴ”していれば、退屈もきっとかなり軽減されるだろう。そしてもういい加減、僕はこれについて議論するべきだと思っている。つまり「人はそこまでしてコミュニケーションを取り続けていたいのか?」という点に。

ソーシャルネットワークが世の中を変えると盛んに言われているけど、もう実は現時点で、大きな可能性は粗方検証され尽くしてしまったのではと思っている。個人目線で考えると大事なのはmixiかFacebookかという議論より、”そこにいけばみんながいる”状態となっている場所がどこかというだけのような気もする。近年巨大プラットフォーム間で勃発しているユーザー囲い込み型のシェア獲得戦争なんて、むしろ人と人を引き離す”壁”を建てているに等しいかもしれない。そういう意味で現状は悲劇的ですらある。

コミュニケーションとか人と人とのつながりという言葉の響きは美しいし、実際人間の根幹に関わる重要な部分のはず。それすらも消費しようとしているインターネットの世界、なんだかすごいことになってるな。。真っ当な感覚にテクノロジーが後付けされた”今の大人”はともかく、物心ついた頃からこの辺の清濁を飲み込んだ”これからの大人”の間では答えのない自分探しが大ブームになったりして。というかもう既に流行ってるよね。

コミュニケーションしていると本気で思っていたのに、実はそれが便利で精巧な仕組みが与えてくれた「つながっている感」「関わっている感」だけでしかなかったとしたら…?便利さ、優しさ、楽しさだけで成立するコミュニケーションだけが全てではないと僕は思うんだけど、ユーザーに甘く優しい表情だけを見せる巨大プラットフォームはいつもそのことを言わない。

この部分をインターネットに委ねるのは現実的に厳しいだろう。だから結局僕は、真っ当な感覚にテクノロジーが後付けされるという正攻法よりも、翻弄される中でどうやって”真っ当な感覚”が後付けされるべきなのかという点に興味があるのだ。