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2010.04.29

東京の看板が、白かった

“@nifty:デイリーポータルZ:東京の看板が、白かった”

http://portal.nifty.com/2009/12/26/b/

携帯電話が普及するようになってから、人の視線は明らかに変わったと思う。電車の中はもちろん、街中を歩いている時も、信号待ちをしているときでも、ケータイの画面を凝視する人をよく見かける。

街を歩きながら本を読む姿は違和感が感じられても、ケータイの画面を見ながら歩く格好はなんとなく市民権を得たようだ。そして、そうやって斜め下ばかりを見て歩く人々は、「東京の看板が白くなった」ということさえ気づいていないのだろう。

東京の街は恐らく世界中で最も広告に汚染された街だ。都心の駅ともなれば貼れる限り何枚でもポスターがみっちり貼られているし、広告や看板を一切入れずに街の景色を撮ることなんて、不可能だと思う。不特定多数の欲が剥き出しにされた公害のような風景も、いざそれが剥がされてすっきりしてしまうと、不思議と恋しくなってしまう。

健全な流れなのかといえば、そうとも思わない。代わりに一時期車内を賑わせた「借金取り返せます」広告なんてとても褒められたものじゃないし、好景気の時代は、余るほどの広告費があったからこそ生まれたような面白い(時にバカバカしい)表現の試みもあったはず。それが費用対効果という視点が必須になってきてから、作り手さえも過剰にそれを意識するようになってしまったのではないだろうか。

ある程度お金や時間が余っていたり、無駄がある状態のほうがモノを作る環境としては優れているのではないかと最近は特に思う。電通や博報堂は確かにボッタクリの商売だと思うけど、そのビジネスモデルから集まった莫大な無駄や余裕が、数々の素晴らしいデザイナーを輩出してきたことは間違いない。今はあらゆる分野で無駄を淘汰しようという流れが世の中を席巻しつつあるけれども、そういった新勢力が少なくとも表現の分野において、かつての無駄や余剰が生んだ産物を超えることができるのだろうか。

人間は少しくらい無駄があったほうが幸せで楽しくなれる生き物なんだと思います。